皆さんが身近な自然と聞いて思い浮かぶのは、
街路樹や公園、周辺の森や山、川や海、動物、見上げた宇宙という、ライトな風景が多いのかなと感じております。
なのでもしかしたら
“…殆どの方がDeepな自然界を直感的に”見たくない”と感じているかもしれない…”
と、自然界のことを伝えていきたいブランドとしての葛藤、既に生じる😂笑
なぜそう思ったかと言うと、
一見 人を癒してくれて、寄り添ってくれて、偉大さを教えてくれてる自然。
しかし”人工的要素のない自然だけの場所”へ、たった一人で入ったり、夜の森に入ると、そこには”明らかなる恐怖心”を感じます。
何故ならそこは、私たち人間のために準備された人間界ではなく、自然界そのものであり、夜に目が効く様々な野生動物🦉や、ありとあらゆる虫たちの見えない蠢き、純粋で在りながらも獰猛で混沌とした命の循環性が、存在(混在)しているからです。
それは正に、こちらからは見えていないのに
“見られている👁️”という感覚…
これ以上立ち入ってはならない感覚…そんな感覚です。
今の先進国の人間社会は、
・ある程度の秩序があって
・ある程度安全が保証されていて
・死が生活と切り離されていて
・汚いと感じるものを見ないで済みます
(もちろん混沌として人間として危ないところは沢山あります)
それとは対象に自然界は、
・カオスだけど大きい秩序があって
・そこにあるものを使って安心の場を作って
・常に死があるのが当たり前で
・汚いも美しいも混在している
まだまだ、たくさんの違いと狭間があります。
そして何よりもネックになっているのは、
自然界はいつも”あるがまま”であり、人間がどうなろうと、《 人間を生かそうとして変わってくれることは、まずありません 》。知ったこっちゃない。
人間が滅亡しようとも、自然は相変わらず、自然のままに生き続けるでしょう。
故に《 自然と共存する 》とは、
《 人間が変わるしかない 》ということです。
だから、自然界から切り離された生活を送り、知恵持つ人間が、ここから再び自然と共存していくことは、なんとなーく難しいと感じる。
面倒くさかったり、他人事だったり、何かが起こるまで破壊を身近に感じられなかったりする。
自然や自然の摂理なしでは生きていけないのに、自惚れて人間がトップだと勘違いして行き過ぎてしまった私たちの根深い意識に
彼らは災いと共に、ただ警告のようなものを鳴らすだけ。それだけ。抗っても、ひとたびやる気を起こされたら、一斉に0ゼロに戻されるだけ。
そしてその時、自然と関わっていなかった人々は、自分たちではなく、自然を恨む。
だから、人災によって災害が起きた理由に辿り着かない。
《 今後、生きていくには自然と共存するしかない 》。
ならば、その最初の一歩は 《 人間が己の小ささを自覚するしかない 》訳です。
選択肢は常に、用意されています。
その選択肢は単純です。
“人間が変わるか、変わらないか”。
シンプルだけど、究極。。
皆さんは、どう感じるでしょうか?
これは、それぞれが選択すべきことで
「選択しない」のもありだと思います。
そこに良いも悪いもない。
自然界と人々を結ぼうとしているのに、恐いことを伝えてしまいましたが、みんな本当は無意識に分かっている、勘づいていることを、わざわざ隠す必要はないですよね。
自然の尊さや、人の命と密接に繋がっていることを、真剣に実感してみてほしいから、今年は、自然界との接点から、こんな風に共に哲学していただけるような、そんなイベントを開催していきます。
出会った方々と自然を体感しながら、《 Why? 》と感じたものを、みんなで哲学する場を。
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