大通りを車で走っているとき、左の道路には女性が運転している車が止まっていて、わたしの車が通り過ぎるのを待っていた。
わたしはたまたま、
彼女の車を通り過ぎる手前にあるポストに、手紙を投函する予定だったので、車のスピードを落とし停止しようとした。
そんなわたしの事情を知らぬまま、
左の道路で待っていた彼女は、車の中から笑顔で会釈し、わたしの車の目の前を横切って行った。
車を運転している人なら分かるかもしれない。
「どうしてスピードを落としているんだ?」
「大通りの車が優先なのに、わざわざ待つのは紛らわしい」と感じ、
少し苛立つ人や困惑した表情を浮かべる人も多い(わたしも時にその中の一人)。
そんな中で、
彼女は笑顔で会釈して、去っていったのだ。
彼女は「待ってくれたんだ」と感じ、感じたままに、素直にリアクションをした。
たまたま、わたしがポスト投函する予定だっただけなのだが、小さな出来事でも瞬間的に”giftと捉えられる見知らぬ彼女の心”と、
素直にリアクションを取れる彼女の”純粋な行動の在り方”に、
その後のわたしは、随分胸を打たれていた。
出来事を、感受する。
その感受性や感性によって、ここから先の機嫌や気持ち、感謝の具合や世界の見え方は、随分違ってくる。
そうなってくると、行動や態度も変わってきて、さらにそれを受け取る人々の何かしらも変わって行く”大きな連鎖”がある訳だ。
「今日はいい事あった。」
と感じて眠りに付けたなら、どんなに心温かいだろう。
しかしながらそれは、
私たちが苦しい出来事を体験したからこそ、傷みの歴史が自身にあるからこそ感じられる”ささやかな幸福”でもあるのだろう。
苛立つことも出来たのに、彼女は笑っていた。
いつもそうある訳ではないかもしれないが、そんな機会に出逢ったというgiftを、彼女から受け取ったような。
今から先の未来のわたしも時折り、彼女みたいな感受性が自然と溢れちゃって、溢れちゃったものが伝わって。って。
野に咲く花が散り、その後に種を飛ばして何処かの地で、別の花を咲かせる。
それそのものなのだなあと、
遠くへ透き通る空と道端を眺めた。
今日もどこかで、ミクロな奇跡。
今日もどこかでミクロな奇跡
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