12年ほど前。わたしより5歳以上年上の、カメラ好きの人たちとの交流が盛んだった。
そんな人たちの中に後にも先にもいない、稀に見るほど映画好きの人がいた。
わたしは、映画好きと言えるほどではないけれど、2,3本の映画を立て続けに観ることがあるくらいには、好きだった( 立て続けに観ることが好きの基準かどうかは、さて置き )。
その人はわたしに「マグノリア」や「 Crush 」「パーフェクトセンス」や「ガタカ」という素晴らしい映画を教えてくれた人だった。
当時その人のブログトップには 、何かの映画の台詞である” life goes on ” という言葉が綴ってあった。
life goes on … 人生は続く
とても印象に残ってる。
大切な人を失っても、愛せなかった失敗を体験しても、未来に可能性を見出せなくても、今が何もかも苦しくても。
この心臓が生きている限り、この心臓が(いつか止まることが分かっていようが)動いている限り、それでも人生は続き、そこには”わたし”という人生が、在り続ける。
自分という人生からは逃れることなど到底できず、されど、わたしを続けているからこそ、いつの間にか人生が交差して、雲に隠していた希望が、瞬く間に明らかになっていく瞬間もある。
人が人としてそうこうしている内に、心臓が止まった先で、愛着ある体から剥がされながら、次の行き先と”どう生きるか”を改めて決める。
この”わたし”を生きてみようと思って、この”わたし”の人生にやって来て、ただただ”わたし”を生きていくのみなのだなと、この心に確信を持ったとき、決め込んだ人生の地図は、朧げに見え始めるようだ。
その地図で一際目立っているのは、なんとも重々しい幾つかの×マーク。
人生の中で、私たちがこの×マークに辿り着いたとき「一体 何を学ぼうとして、わたしはこの×マークを仕掛けたのか」と問い、この身で答えにならぬ答えを、汗水垂らしながら探すことになるのだ。
そのプロセスこそが、どうやら生きている今にしか、味わえない貴重なものらしい。
目の前で亡くなる命があれば、
人生が続く命もある。
しかしどちらにせよ、いつか人は死ぬ。
どう足掻いても死ぬまで続く命があるのならば、命を続けない自分の姿を追うのではなく、命を続けられる方の自分の姿を選び続けて、歩き出すのも悪くはないだろう。
命を続けられる自分は、一体どんな表情をして、どんな姿をして、今から先に何をするだろうか。
その先に、希望が待つか絶望が待つかなど分からないが、何が待っているのか分からないことこそが希望であり、躍動であり、人間らしさ。
ただ命尽きるまで”生きる”ことこそ、人生。
life goes on 人生は続く
私たちの人生は続く